米澤穂信という作家に惚れている
米澤穂信という作家に惚れている。
彼の格調高い文章と、その知性とにだ。
彼との出会いは中学1年生の頃。
不登校になったばかりで、1番辛かった時期だ。世を儚んでいて、目のハイライトなど、全く機能していなかった時分だと思う。
そんな自分の目に、少しばかり明るい部分を復活させてくれたのが、アニメ「氷菓」だ。
深夜にテレビをつけていて、その美麗な作画に惹かれた。
そのアニメの中では、登場人物たちが、活き活きと喋り、謎解きをし、そして淡い恋模様を見せていた。
俗に「京アニクオリティ」と呼ばれる映像美も相まって、僕はその作品に惹きつけられ、失われた青春を疑似体験していった。
といっても、中学1年生の、今より更に青臭い子どもであったこと、そして絶望的な精神状態から、当時は深く考えずに見ていて、ただ、どうにもならない現実を慰めてくれるだけだった。
だがしかし、数年後、高校2年の頃になって、多少なりとも大人に近づき、同時に精神状態も少しばかり落ち着いてくると、見方が変わった。
そこに、あるメッセージ性のようなものを読み取れるようになったのだ。
説明し遅れたけれど、「氷菓」は、主人公が「古典部」という活動目的不明の部に入り、部員たちとともに文集をつくったり、なぜか毎回謎解きをしたりする、という青春群像劇だ。
「古典部」が活動の場であるから、当然、「今」と「過去」の対比が、物語全体を通して印象的である。
その中に出てくる忘れらない一節が、
「きっと10年後、この日々を惜しまない」
という力強い決意表明であったり、
「全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典となっていく」
というなにやら意味深い、それでいていやに耳に残る、文章である。
それから、自然と、僕は「氷菓」から始まる古典部シリーズの小説を手に取るようになった。
ちょうど人生について考える時期であり、不登校になる前の「昔」と希望の見えない「今」を、他人の視点で見てみたかったからかもしれない。
記憶が曖昧だが、不登校になり、うつになり、はじめて手にした小説が古典部シリーズだったと思う。
いわば復帰戦である。リハビリである。
そうして、数年かけて米澤穂信の著作を読破していった。
「いまさら翼といわれても」が発売されたときには、装丁の美しさと本の愛おしさというのは比例するのだと知ったし、
「小市民シリーズ」を次々と読んでいった日には、「自分は小市民で終わるのだろうか、それとも、なにか別の道があるのだろうか、自分にできることは」と自らに問うたし、
「ボトルネック」という作品は、「自分がいない世界」という舞台を、自らのケースに置き換え、「自分がいない教室」で彼らはどうしているのだろうか、と夢想したりした。
そして、忘れられないのが、「王とサーカス」と「儚い羊たちの祝宴」である。
両方とも、自分にかなりの影響を与えた作品で、
「王とサーカス」はなんだか上手く言えないが、「世界の尊さ」というのを教えてくれ、人生に絶望しないようにしてくれた作品であり、僕に夜更かしを強要した本でもある。
「儚い羊たちの祝宴」は、単純に、とても面白い本だった。忘れもしない高校3年の夏、受験勉強の合間に読み出したら止まらなく、読み終わったときには、脳内快楽物質ドーパミンがどぱどぱ出て、勉強どころでなく、ひたすら麻薬のように「快楽」であったことを覚えている。
そして、これらの作品を読んできて思うのが、
米澤穂信先生は知性が素晴らしい、
ということだ。
美しい文章を操るし、物事を俯瞰して見て、かつ深く考えているのが伺える人だと思う。
ということで、僕は米澤穂信先生の知性に惚れているし、尊敬し、憧れている。
彼も、僕を救ってくれた1人である。