人生に絶望したことがある
人生に絶望したことがある。
それも何度もだ。
ひきこもっていた頃は毎日絶望していたから、少なくとも、365×6=2190回は絶望したかもしれない。
そんなときって、ポジティブに考えるのは到底無理だ。
ポジティブに考えることは、ある程度、衣食住が揃っていて、お金もあって、人とのつながりもあって、親や友達などから愛情を受けている、受けた経験がある、と、実はいくつものハードルを越えて成り立っているのだと思う。
そして、まあ、この世が自分に合っていないと感じざるをえなくなり、そこから逃れようと、健康な人から見れば愚かしい行動をしたりする。
「その行動」が昨今、大きな社会問題になっているが、当事者から見れば本当にどうしようもないのだ。あらゆる可能性を考え尽くし、あるいは考えられなくなり、そして、そうなってしまう。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」
という一節があるけれど、まさしくそれだ。
また、キルケゴールという哲学者は、著書「死に至る病」の中で、
「死に至る病とは、絶望のことである」
と述べている。
絶望というのは、そういうものだ。
どれだけ社会が変容したところで、きっと、絶望も、絶望に至る原因をもたらす
いじめも、不仲も、退屈も、嫉妬も、理不尽も、過労も、劣等感も、争いも、孤独も、疎外感も、
なくならないだろう。
なくなるとしたら、人間が地球上からいなくなったときか、人間が人間でなくなったときだ。
僕は、そのどちらも望んでいない。
だから、この世は基本的に弱肉強食なのだと僕は感じ、絶望はやりすごすしかないと思ったりもする。
もちろん、可能なら絶望は十分に回避すべきで、助けを求められるのなら求めた方がいいとした上で、
絶望を甘んじて受け入れる方法だってあると思うのだ。
僕は、絶望を6年受け入れた。受け入れざるをえなかった。
そして今、絶望を美化している。
絶望を知っているからこそ、見える世界がある。
自分が知っている以上の絶望を味わっている人もいるのだろう、と想像することができる。
そうした人たちに可能な限り手を差し伸べることができる。
共感を生むこともできる。
これから来る絶望を回避しようと、必死で努力することもできる。恐怖は尽きることのないエネルギー源になる。
そして、伸ばした能力でより多くの人を救える未来もあるかもしれない。
どうだ、素晴らしいじゃないか、絶望って。
そう思わないと、やっていられなかったりもする。