僕ほど弱い人も、そうそういるまいよ
いやぁ、人生って面白いなぁ、と思う。
世の中には、強い遺伝子を持って生まれてくる人もいれば、弱い遺伝子を持たざるをえない人もいる。
まあ、残念ながら、僕は後者なわけであるが。
本当に、僕の先祖はどうやってこの令和の時代まで子孫を残し続けられたのだろう、と思うぐらいである。
そんな僕は、HSPという特性を持っている。
HSPとは、highly sensitive personの頭文字をとったもので、直訳すると、「とても感受性の強い人」だろうか。
僕は専門家ではないので、多くは語れないし、詳しくはネットで調べるなりしてほしい。
ただ言えることは、感受性が強く、人とのコミュニケーションに自信が持てないので、どうしようもないほど劣等感にまみれている。
そんな僕が「人生って面白い」と言えるのは、圧倒的な諦めがあったからであり、また、同時に「本」という媒体に、無償の愛で支えられてきたからである。
何度、いろんな場で述べてきたかわからないが、僕ほど弱い人で、かつ、僕ほど本に救われてきた人はそうそういない。
まあ、広い世界を見渡せば、僕より弱い人も、僕より本を読んでいる人も、その両方を兼ね備えている人も、かなりの数がいるであろうが、それでも全体から見ればすごくちっぽけな数だろう。
だから、僕はこういう場で文章を書いている。
文章を書くのが好きな人たちが集まる場で、日常や雑踏の喧騒を忘れ、文章を書いている。
そうするだけで、僕は結構満足するのだ。
だから、言おう。
僕ほど弱い人はそうそういないが、僕ほど人生の辛さも素晴らしさも味わっている人もまた、そうそういないと。
いつか、この感情をうまく小説にできたらいいな、と思う。
僕が最も愛する、「物語」という形式で。
傷つきたい
時々、無性に傷つきたいと願う。
うわべだけの会話なんて、最も忌み嫌うものだ。
お互い丸裸になって、本音をさらして、言い争いがしたい。子どもみたいに、取っ組み合いのけんかがしたい。
すべてを捨てて、ここで人生が終わってもいいぐらいに、相手の心を鷲掴みにしたい。
憎まれたい。
それをマゾヒズムと呼び、軽蔑し、酒の席の肴にする人がいるかもしれないけれど、そうではないのだ。
この世は、人間の心情は、もっと複雑だ。
なぜそんな無闇をするか、なんでそんな感情をいだくのか、と問われれば、
わかる人にしかわからない、と答えよう。
刃物のような言葉は、心をズタズタにするかもしれない。
一生治らない心の傷を負うかもしれない。
明日、朝起きることができなくなるかもしれない。
そのまま、ズルズルと休み続けることになるかもしれない。
それなのだ。それがいいのだ。
破滅願望。
再起不能になるまで立ち上がれなくなりたい、という感情。
それを、病んでいる、というのなら、僕はおそらく病んでいるのだろう。
でも、その傷ついた、極限の果てには、どうしようもなく、甘い甘い、果実がある。
いい文章が書けるようになる、というご褒美が。
傷つき、病んだ者の文章は格別だ。
太宰治の人間失格だって、宮沢賢治の銀河鉄道の夜だって、三島由紀夫の金閣寺だって、その他、文豪の作品は大体が、頭を抱え悩み、そして命を削ってできた大傑作だ。
そして、小説家が死のうとも、その文学は時を越えて残り続ける。
残らなくても、命を削った結果だから、そこに宿る美学が存在した、という事実は変わらない。
それだけで、いいじゃないか。
人間が存在する理由なんて、それだけだ。
物を書く者は、文章の奴隷なのだ。
ドラゴンボールの思い出を10代が語る
【ネタバレ多数】
ドラゴンボールが好きである。
筆者はギリギリ10代だが、はじめて買ったマンガがドラゴンボール、という、おそらく今どき珍しいタイプの若者じゃないかと思う。
まあ、ドラゴンボールは連載開始から30年経った今でもどこの本屋にも置いてあるくらいなので、大したことじゃないかもしれないが。
さて、本題である。
僕は、小学校の2年生のころにドラゴンボールのマンガを始めて買った。きっかけは忘れてしまったけれど。
買ったのは、41巻だった。
ドラゴンボールファンがこれを聞いたら、ちょっとただ事じゃないのがわかるはずだ。
なぜなら、ドラゴンボールは全「42巻で完結」しているからだ。
41巻と言えば、魔人ブウが悪のブウになって、地球人を全滅させ、ゴテンクスと戦い、そして覚醒した悟飯に「ウスノロ……」と言われるところだ。
もう、何がなんだかわからないくらい混沌したところである。
であるのに、このガキは、41巻から買ってしまったのだ。
多分、表紙にたくさんキャラが大集合しているのにワクワクしたせいじゃないかと思う。
「オラ、ワクワクすっぞ!」みたいに。
まあ、そんなわけだから、なんにも理解しないまま読み進めていったと思う。
面白かったかどうかすら覚えていない。
なにしろ、マンガを読む、コマ割りの追い方も見よう見まねでやっていったのだから。
そうして、自分でもわからないままなんでか知らないけど、ドラゴンボールを買い揃えていった。
41巻の後は33巻を買った。
トランクスがでかくなるところだ。俗に言うならば、ムキンクス。
その後は確か、2巻を買い、1巻を読み、どんどんどんどん揃えていった。
当時の僕は、おもちゃより何より、ドラゴンボールを買ってもらえることの方が嬉しかったのだ。
(あと、ハリー・ポッターを読むこと)
テキトーに、順番考えず買っていった結果、
ピッコロ大魔王編を読むのはずいぶん後になり、
魔人ブウが誕生したきっかけも知らないまま、魔人ブウは消滅し、
悟空は子どもだった頃を経る前に、おじいちゃんになって孫までできていた。
それに、
ドラゴンボールを、読んでいる間ずっと楽しかったと思うが、1番覚えているのはマッスルタワーでハッチャンと戦っていたところだったりする。
……まあ、そんな感じである。
僕自身が少年期の頃から悟空、ベジータ、ピッコロは側にいてくれたし、
存分にかめはめ波の練習をさせてくれたりした。
今でも彼らはスクリーンの中でブロリーと戦っていたり、頑張ってくれているようだ。
その姿を見て、自分もさらに頑張らなくては、と思うのである。
最後に、この言葉を。
「悟空がいたから楽しかった
ドジで 明るくて 優しくて
そんな悟空がみんな大好きだったから」
ドラゴンボールは、多くのドラゴンボール狂いを生み出した、最高のコンテンツである。
そして、今も、ドラゴンボールの1ページを開いている子どもがいるだろうか。
小説が書けなくなってブログを始めたけれど……
辻村深月先生は「先生」と呼ぶにふさわしい
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人生に絶望したことがある
人生に絶望したことがある。
それも何度もだ。
ひきこもっていた頃は毎日絶望していたから、少なくとも、365×6=2190回は絶望したかもしれない。
そんなときって、ポジティブに考えるのは到底無理だ。
ポジティブに考えることは、ある程度、衣食住が揃っていて、お金もあって、人とのつながりもあって、親や友達などから愛情を受けている、受けた経験がある、と、実はいくつものハードルを越えて成り立っているのだと思う。
そして、まあ、この世が自分に合っていないと感じざるをえなくなり、そこから逃れようと、健康な人から見れば愚かしい行動をしたりする。
「その行動」が昨今、大きな社会問題になっているが、当事者から見れば本当にどうしようもないのだ。あらゆる可能性を考え尽くし、あるいは考えられなくなり、そして、そうなってしまう。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」
という一節があるけれど、まさしくそれだ。
また、キルケゴールという哲学者は、著書「死に至る病」の中で、
「死に至る病とは、絶望のことである」
と述べている。
絶望というのは、そういうものだ。
どれだけ社会が変容したところで、きっと、絶望も、絶望に至る原因をもたらす
いじめも、不仲も、退屈も、嫉妬も、理不尽も、過労も、劣等感も、争いも、孤独も、疎外感も、
なくならないだろう。
なくなるとしたら、人間が地球上からいなくなったときか、人間が人間でなくなったときだ。
僕は、そのどちらも望んでいない。
だから、この世は基本的に弱肉強食なのだと僕は感じ、絶望はやりすごすしかないと思ったりもする。
もちろん、可能なら絶望は十分に回避すべきで、助けを求められるのなら求めた方がいいとした上で、
絶望を甘んじて受け入れる方法だってあると思うのだ。
僕は、絶望を6年受け入れた。受け入れざるをえなかった。
そして今、絶望を美化している。
絶望を知っているからこそ、見える世界がある。
自分が知っている以上の絶望を味わっている人もいるのだろう、と想像することができる。
そうした人たちに可能な限り手を差し伸べることができる。
共感を生むこともできる。
これから来る絶望を回避しようと、必死で努力することもできる。恐怖は尽きることのないエネルギー源になる。
そして、伸ばした能力でより多くの人を救える未来もあるかもしれない。
どうだ、素晴らしいじゃないか、絶望って。
そう思わないと、やっていられなかったりもする。
米澤穂信という作家に惚れている
米澤穂信という作家に惚れている。
彼の格調高い文章と、その知性とにだ。
彼との出会いは中学1年生の頃。
不登校になったばかりで、1番辛かった時期だ。世を儚んでいて、目のハイライトなど、全く機能していなかった時分だと思う。
そんな自分の目に、少しばかり明るい部分を復活させてくれたのが、アニメ「氷菓」だ。
深夜にテレビをつけていて、その美麗な作画に惹かれた。
そのアニメの中では、登場人物たちが、活き活きと喋り、謎解きをし、そして淡い恋模様を見せていた。
俗に「京アニクオリティ」と呼ばれる映像美も相まって、僕はその作品に惹きつけられ、失われた青春を疑似体験していった。
といっても、中学1年生の、今より更に青臭い子どもであったこと、そして絶望的な精神状態から、当時は深く考えずに見ていて、ただ、どうにもならない現実を慰めてくれるだけだった。
だがしかし、数年後、高校2年の頃になって、多少なりとも大人に近づき、同時に精神状態も少しばかり落ち着いてくると、見方が変わった。
そこに、あるメッセージ性のようなものを読み取れるようになったのだ。
説明し遅れたけれど、「氷菓」は、主人公が「古典部」という活動目的不明の部に入り、部員たちとともに文集をつくったり、なぜか毎回謎解きをしたりする、という青春群像劇だ。
「古典部」が活動の場であるから、当然、「今」と「過去」の対比が、物語全体を通して印象的である。
その中に出てくる忘れらない一節が、
「きっと10年後、この日々を惜しまない」
という力強い決意表明であったり、
「全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典となっていく」
というなにやら意味深い、それでいていやに耳に残る、文章である。
それから、自然と、僕は「氷菓」から始まる古典部シリーズの小説を手に取るようになった。
ちょうど人生について考える時期であり、不登校になる前の「昔」と希望の見えない「今」を、他人の視点で見てみたかったからかもしれない。
記憶が曖昧だが、不登校になり、うつになり、はじめて手にした小説が古典部シリーズだったと思う。
いわば復帰戦である。リハビリである。
そうして、数年かけて米澤穂信の著作を読破していった。
「いまさら翼といわれても」が発売されたときには、装丁の美しさと本の愛おしさというのは比例するのだと知ったし、
「小市民シリーズ」を次々と読んでいった日には、「自分は小市民で終わるのだろうか、それとも、なにか別の道があるのだろうか、自分にできることは」と自らに問うたし、
「ボトルネック」という作品は、「自分がいない世界」という舞台を、自らのケースに置き換え、「自分がいない教室」で彼らはどうしているのだろうか、と夢想したりした。
そして、忘れられないのが、「王とサーカス」と「儚い羊たちの祝宴」である。
両方とも、自分にかなりの影響を与えた作品で、
「王とサーカス」はなんだか上手く言えないが、「世界の尊さ」というのを教えてくれ、人生に絶望しないようにしてくれた作品であり、僕に夜更かしを強要した本でもある。
「儚い羊たちの祝宴」は、単純に、とても面白い本だった。忘れもしない高校3年の夏、受験勉強の合間に読み出したら止まらなく、読み終わったときには、脳内快楽物質ドーパミンがどぱどぱ出て、勉強どころでなく、ひたすら麻薬のように「快楽」であったことを覚えている。
そして、これらの作品を読んできて思うのが、
米澤穂信先生は知性が素晴らしい、
ということだ。
美しい文章を操るし、物事を俯瞰して見て、かつ深く考えているのが伺える人だと思う。
ということで、僕は米澤穂信先生の知性に惚れているし、尊敬し、憧れている。
彼も、僕を救ってくれた1人である。