大した読書家ではない
変態的に本が好きだけれど、自分のことを大した読書家でないと思っている。
理由を述べてみよう。
①村上春樹を読んだことがなかった
②純文学を意識したことがなかった
③新書すら知らなかった
④本にお金を使う、ということを知らなかった
⑤海外文学?読む気しないなぁ、状態だった
⑦再読ばかりし過ぎたのだ
⑧すごい読書家が多すぎる
⑨読むペースがめちゃくちゃ速いわけじゃない
⑩結局、うつとひきこもりのせいでもある
いずれすべての理由についてブログにひとつずつ書いていきたいが、まあ、この一覧を見るだけでも読書家界隈は怒り狂うであろう。
こんなので読書家と呼べるか、ふざけるな、これだから今どきの若者は、許せない……(若干被害妄想)。
……わかっている。わかっているのだ。
自分は「変態的に本が好き」と自己申告してもいいほどの読書家ではないことを。
だから今、必死に読んでいるのではないですか。
変態的に本が好きだけれど、自分より上の読書家なんていくらでもいる。
自分より上の読書家がいくらでもいるから、変態的に本が好きだ。
この世には、人間が一生かかっても読めないほど、本がたっくさんある。
先人たちは本を読み、そしてさらに新しい本を書いてきた。
こんなにいいことはない。
こんなにいい趣味はない。
最高だ。無限の知の探求を一生味わえる。
そして、読めば読むほど、個としての自分の価値は高まっていく。
自分のことを大した読書家でないと知りながら、今日も読んでいる。
ダンブルドア先生のような賢者になり、彼を追い越せるまで、読み続けるだろう。
そして、自分が読書をやめるのは、命がなくなったときだと、決めている。
変態的に本が好きなので……
まあ、本が好きだ。
変態的に好きだ。
昔と言っていいほど前ではないけれど、ひきこもっていたことがあった。6年間ぐらいだろうか。
俗に言う不登校というやつである。
そんなときも、本を読んでいた。
うつだったから、大学生となった今と違って、1年に365冊読むこともできず、ただただ無理をしない範囲で、ふとんに寝転がりながら本を読んだ。
言ってみれば当代を代表する一般文芸作家たちである。
もちろん、10代であるから、ライトノベルもマンガも読んだ。
逆に、村上春樹を代表する純文学や、太宰治などの文豪はあまり嗜まなかった。触れる機会がなかったのだ。
(今はそれを取り戻すべく、猛烈な勢いで読んでいる!)
つまり、昔も今も、病めるときも、健やかなるときも、読書だけはやめなかったということだ。
僕は、不登校と呼ばれる状態にあったとき、
確かに、本に救われていたのだと思う。
まあ、本が好きだ。
変態的に好きだ。
ダンブルドア先生に憧れて
人生の意味を考えるのが好きだ。
それは、多分、人生に本質的意味はなく、それを探し求め、意味づけしていくことに価値があると考えているからだと思う。
人生に何度も絶望し、「消えたい」と思ったりもするけど、人生の意味を考えるのはやめていない。
誰にでもあることだろうけれど。
ちょっと自分の場合は他の人よりその回数が多いんじゃないかと、思春期の延長上でぼんやりと思う。
まあ、そんなこんなで今まで生きてきた。
紆余曲折あった後、現在は大学生である。
そんな自分は、人生に希望を抱けないことも多いけれど、楽しみにしていることはある。
それは、ひとえに本のお陰であり、フィクションが命綱のように自分を惹き付けてやまないということだ。
「本」という媒体が好きで、年間365冊ほど読んでいる。
どんなジャンルでも大体読む。
小説はもちろん、ノンフィクション、伝記、歴史書、詩集、洋書、新書、専門書、雑誌……。
趣味で数学を解いたりもする。
そういう風にできるのは、「憧れ」があるからに他ならない。
僕の読書体験は「ハリー・ポッター」を小学生の時に読んでから始まったのだが、
あの時信じられないほどの興奮と共に、
ダンブルドア先生に憧れたのだ。
小学生だから、もちろんダンブルドア先生の真似をした。バカみたいに痛々しく、「賢者になるとは」と僕は考え、そのように振る舞っていたのだ。
その中二病的憧れは未だ治らず、こうして賢しげを気取ったブログを書き出してしまうほどには、ああなりたい、と望んでいる。